私が釣をやり始めたのは終戦直後である。
竿は家にあった細い竹にミシン糸をくくり付け、錘は石、針は細い針金製であった。餌は当然ミミズである。家のドブを掘ればいくらでも捕れた。終戦直後の事とて統制経済であったから国民は皆貧乏で物はない、お金はない(仮に銀行にお金があっても簡単に下ろして使えない)頃の話である。
それでも川に行けば小さなハゼが面白いように釣れた。釣れたら釣れたでもっと釣れるようになりたいと思った。当時工場労働者の人たちの子供は、毎月の給料と云う現金が入ってくるので釣具屋で竿を親から買って貰えたが、うちの家は戦争中から統制経済の余波を受け商売が出来なかった。それで当然お金がなかったので、自分で簡単な自作の竹で釣るしかなかったのである。
やがて小学校へ入学し、新しい友達と釣りに行く様になった。友達は父親の立派な男竹(布袋竹=酒田には苦竹の庄内竿と根付の布袋竹製の酒田竿と孟宗竹の削り竿の三種類あった。他に安物の竿として九州産の布袋竹製の延べ竿と関東産の矢竹製の継竿)の竿を持って来ていた。そんな友達の竿が羨ましく、いつか自分もそんな竿を持ちたいと思った。
生憎家の家族は釣をするものは誰もいなかったし、代々が商人であったので酒田で釣をすることは「道楽者」と云われていたから理解をしては貰えなかった。私はそんな家に生まれた。酒田は昔から商人町で鶴岡の釣文化の伝統のある城下町とは、一線を画していたのである。小学校3年頃になってお年玉等を貯めたお金で、自分もやっと男竹(布袋竹)の竿を買った。これで、一人前の釣師の積もりになった。休みの度にハゼ釣に興じた。すぐ家の前に釣の好きなお年寄りが居た。その人から、釣のノウハウを伝授してもらった。その人は沢山ある竿の中でハゼ釣に使う竿は、根子付の一間半の立派な布袋竹の竿であった。竿全体が細く、魚が釣れると適度に曲がりそれで居て癖が付かない。子供心にいつかそんな竿を持ちたいと思った。
小学校の高学年になると釣友達が増え、海に近い汽水にも釣りに行くようになった。庄内竿に出会ったのは其の頃である。釣具屋では見たことはあっても、実際に使っている人に出会ったのは・・・。自分が何時も使っている布袋竹の硬目の竿とは違って何か釣れそうな気がした。細くしなやかなで優美な竿は釣れそうな気がし、何時かは自分もと思う様になった。
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